忙しいときに病気になる意味 4

いろいろ書いてきたが、正直言って、僕は忙しいときに病気になるような人が理解出来ない。というより、僕は忙しいこと自体好きではないし、過労で寝込む一歩手前で休むようにしているからだ。

 それはある意味、自己愛である。好きなことを、マイペースで行う。世のため、人のためといっても、そのこと自体自分の好きなことの範疇、延長にあることだ。逆に言うなら、たとえ世のため人のためになることであっても、自分の気が向かないことはしないということだ。
 まぁ、そのように考えるようになったいきさつは、自分が生まれつき持病を抱えていたからであり、その持病を良くしてゆく方向でそのような考えに至ったからだ。

 だから僕は、心が望むことをしていれば病むことはありえないと思っているし、忙しくても病む手前で休むことを選択するはずだと思っている。忙しくて過労となり、このままでは体が壊れるということは誰でも予測できるはずだ。
 
 
 すると、忙しいときに病んだから治療するという前に、「なぜそこまで無理をするのか?」という問いかけを自分にすべきだろろう。もしそこに、家族のためとかみんなのためという理由があったとしても、気持ちの面や体力の面においていろいろ負担がかかることは予測できるはずだ。
 予測できるなら、その負担に備えて、心身を磨く訓練をするはずだ。 スポーツ選手は、体に負担のあることをするわけだから、常に訓練をしている。それでもケガはするが、日頃から訓練していると、その鍛えられた体と鍛えるという心が傷の回復を早くする。
 
 それをなぜしないのだろう。という問いかけもしてほしい。
 
 だから僕は、忙しくて過労で倒れ、挙句の果てに入院するというような人は、その心に「出来ることならもうやめたいとかサボりたい」という気持ちがどこかにあって、その気持ちに対する言い訳として、「私はこれだけ無理してるんだ」ということを誰かに認めてほしいのではないかと思う。
 
 
 全ての人がそうだ゛と言うわけではない。過労で倒れるまで働く自分の心を見つめてほしいと、ここでは言いたいのだ。
そして、「もう一人の自分」が見えてきたなら、自分のなかで相反する二人の自分に対話させる。すると、葛藤が生じる。
「私はこれでいいんだろうか?」と葛藤が生じたとき、葛藤する自分を責めないで、意図的に敢えて葛藤をすると、大概病気は治るか軽くなる。これは本当だ。

次回からは、「原因不明の病気」について洞察してゆこうと思います。よろしく

忙しいとき病気になる意味 3

もうひとつ、考えられることは、忙しいがために「自分の中心」を失ったということ。
つまり自分の体、心、考えに「まとまり」がなくなったということ。
 

 自分の意識の中心については、以前にも書いたが、「自分は本来どういう人間なんだろう」ということ。他人から認められようと、いろいろな表現をしたりして「心にもない」ことを、つまり「自分の気持ちとは裏腹な」ことを言ったりしたりしているうちに、自分は一体どういう人間だつたのか忘れてしまうことがある。 もともと内向的で社交が苦手な自分だったら、そこをいくらがんばってみても、もともと外交的な人のようにうまくは出来ない。すると思うように出来ないどころか、うまく出来ない自分を責めたりするかもしれない。

 
 このような場合は、社会の中で生きていくために苦手なこと、いゃなことをがんばってするのは良いが、もともと自分はどういう人間なのか、しっかりと自覚しておくと良い。今挙げたケースなら、「内向的で社交が嫌いな自分」を認め、その自分を愛し、「その自分が苦手なことをがんばってやってるんだ」としっかりとありのままの自分と現実にしている行為を見つめる目を持つことだ。
 


 次に「考えの中心」がずれている場合。
今、自分は何を中心に物事を考えるべきか。仕事、家庭、友達との付き合い、恋愛などいろいろある中で、何を日常の中心に据えるかということ。 例えば、今自分は恋愛に燃えているなら、そのことを常に考え、ほかの仕事とか家族との関係は、今中心に据えている恋愛を成り立たせるためにある、と考えてみる。そう考えることで、自分の気持ちと頭がまとまるかどうか、身体的には「頭蓋骨が締まる感じ」がするかどうかを指針とする。
 考えの中心を間違えると、考えがまとまらない、考えることに気持ちがついてゆかない、その微妙なシグナルを無視すると頭痛となったり、うつ病となったりする。 

 ただし、考えの中心は固定的にしないこと。流動的に臨機応変に中心を移し変えることも必要だ。

 

忙しいときに病気になる意味 2


 忙しいときの自分の心身の反応を観察してみよう。
そのとき、自分の心は何を考えているか、目の前の仕事をこなすかということか、そのことに対して気持ちは前向きか?
いゃだなぁという気持ちは生じてないか?

呼吸はどうだろう?どんな呼吸をしているだろう?肩はどうだろう?緊張しているだろうか?胸はどうだろう?背中や腰はどうだろう?

あるいは、こんなエクササイズもしてみると良いかもしれない。

1,仕事のこと、あるいは家事、育児、家族との付き合いなど、どちらかといえば「進んでやりたいというよりしなければならない」ことを想いうかべる。
2,それを想いうかべたときの身体の反応に気づく。呼吸はどうだろう?リラックスしているだろうか?あるいは体のどこが緊張しているだろろうか?
3,その呼吸と体の緊張は何を意味しているだろうか?身体の反応を言葉で表現出来るまで、じっくりとその緊張を感じてみよう。
4,体自体は、その呼吸と緊張をどうしたがっているだろう?呼吸を整えたり緊張をほぐすことをする前に、体の反応、起こるがままに任せてみよう。その反応、動きの意味を言葉にしてみよう。


おそらく、このようなエクササイズを仕事から帰宅してから寝る前など、あるいは朝起きてからすぐしてみるのも良いだろう。
そして、どうもやる気が出ないとか腰がひけるとかいう反応が続くなら、ひとつには休んでみる。しかしそれが出来ないなら、簡単なヨガのポーズや柔軟体操を朝あるいは夜寝る前に行う。背骨に呼吸するなどしてみると、体がしゃんとするだろうし、それでもダメなら整体に罹るのも良い。


そこまでする気がどうも起きないというなら、自分は何のためにこの仕事をしているのか、なぜこの環境に身を置いているのか問うてみよう。

忙しいときに病気になる意味

 仕事が忙しい、家庭のことで忙しい。そのようなとき、風邪を引いたりぎっくり腰になったりすることがある。
のんびり寝てなどいられないから、早く治したいと思う。そのために、薬を迷わず、あるいは仕方なく飲んだり、すぐに治してもらおうと整体に訪れる。

 しかし、人の体というのは自然の流れに沿って動いている。その辺は台風や地震などの天災と同じである。
まぁ人の体の病は予防することも出来るが、台風や地震は予防のしようがない。
 そして、病も台風も起こってしまったら、それが自然に去るのを待つしかない。

 自然に去るのを待つしかないなら、治療など必要ないし僕がこうして整体をするのもおかしい。しかし僕の整体治療は、自然がスムーズに流れるようにするものであり、自然の流れに逆らうものではないのだ。
 

 忙しいときに病気になるのは、疲労が蓄積しているからだろう。ならば休むのが良い。でも休めるなら治すことに焦らないと人は言う。そうだろうか?本当に休めないのだろうか?

こう自分に問いかけてほしい。休めないのは、他人に迷惑がかかるからか?それとも自分に迷惑がかかる?からか。自分に迷惑とは、休むことで自分の社会的立場を失うことを恐れているのか、あるいはだらしないと人から見られることを恐れているのか? そして、風邪などで休んでいられず無理してがんばっているうちに大きな病となり入院を余儀なくされる。
 
 
 入院のために仕事を休むことは、周りからも同情されるし医師の診断書で休暇も認められる。
うーん、そこのところが僕から見ると、妙に思う。それだったら風邪やぎっくり腰で休むことも同じように考えてよかろうに。
 

 そしてまた忙しいときに病むのは、本音を言えば「休みたい、この場から離れてリフレッシュしたい」のではないか?それくらいの本音、なぜ認められないのだろう。確かに、それを語ったところで周囲のみんなも大変な思いをして働いているのだから、そんな要求は通らないことを感じているのだろう。でも、通らないにしても、自分の内面にはそういう気持ちがあることは認めておく必要がある。

 それを認めていると病む理由がわかるし、たとえ休めなくても、すぐには治らなくてもそれを受け容れられるからだ。病むことを受け容れると、回復は早い。 

歩く整体

 先日、仲間うちの勉強会で「歩くワーク」を行いました。
歩いているときの自分が無意識的にやっているクセ、あるいは歩くことと関係の無いようなしぐさに気づきます。
そして、それを強めるように歩くのです。

例えば、足を引きずってあるいているようなら、もっと引きずることをリアルに強調して歩くのです。


その動きをずっと続けてゆくと、しばらくして動きが自然と変化してきます。
動きを意識して変えてはならない。反対に動きを変えないと言うのでもない。
動きが自然に変化するのに任せます。

このようにして歩くことを10分くらい続けてみてください。
体の余分な緊張がほぐれ、背筋が伸び、呼吸が深くなります。


なぜこのようなことが起こるのか?
歩くときのクセやしぐさには、体の要求や無意識の心理的要求が現れているのです。
それを促してしまうと、どこかで満たされてしまうのです。
満たされると、もはや体はそのしぐさは不要となりますから、自然とやめるのです。
やめると次に違うしぐさが出てくることもある。
それも体や無意識の要求です。
それをそのまま促していくと、満たされれば自然とやめます。

このようなことがしばらく起こって、段々と体が整う。
つまりニュートラルな状態になるのです。


内観的整体セラピー 10 素のままに

無心に生きるなど、とても難しい話になってしまいました。
しかし要は、素のままに生きる、つまり自分を飾る体裁や見栄、損得を図る考えや感情を脇に置いて、素顔の自分になるということです。それと身体の健康とどういう関係があるの?という問いに対しての答えは、今までの原稿を読んでいただければわかると思います。


そして僕自身、心の静寂を保っているというのは、何も仙人のような暮らしをしているわけではなく、素顔のままに人と接し、決して自分を偽らないということです。つまり例えば、あなたと話していて面白くなく退屈してきたら、それを表情で表す、というか自然と表情に現れてしまうほどの自然体になっています。
その素顔さ、自然のままの反応が、社会性という仮面を外せない人からは違和感を感じさせるかもしれません。


でも、その違和感が大事なポイントとも言える。つまり僕の自然なままの態度に違和感を抱く人は、その人自身の身体の自然な反応に対しても違和感を抱くのです。だからその違和感が心身を内観する上でひとつのポイントでもあり、違和感が違和感でなくなるようになってゆけば確実に身体は変わります。


でもそれは、僕と親しくせよと言うのではない。つまりどちらが正しいとかどうあるのが正しいう視点から語り合ったり関係を築いていくことを望んでいるのではないのです。あなたも僕としてつまらなければ、それを語ったらよいのです。

ただセラピーの目的は、自分の身体との付き合いですから、その付合い方を学ぶ上で僕と呼吸が合うなら通ってくれたらよいのです。しかし飽きたらやめるのも自由。
その自由さを病院や学校、職場に通う場合も通してくれたら、それは僕が一番あなたに望むこと。
だから、実は僕のセラピーは、僕との関わりは、話は難しいかもしれないが、社会的束縛は一切ない、お互いの自由を取り戻す方向での関係なのです。


ただし、自然から自由になろうとしたり自然を自分の思い通りにしようとすることは、思ってはいけない、してはいけないご法度が、ここでの唯一のルールです。

内観的整体セラピー 9 無心に生きる

 病んだとき、あるいは何か想定外の出来事が起きたとき、心を騒がせることなく、「この事態は何を意味してるんだろう」「私をどこへ連れてこうとしてるんだろう」と静観、内観するということは、つまりは「無心に生きる」ということですね。

 
 整体では相手に愉気するとき、無心であること、天心であることを求められます。それは、心に波風がたたないような「しーんとした感覚、雰囲気」です。その感覚、雰囲気になっている時間を出来るだけ長くする、あるいは一日の中で何度かそういう状態になることを求められます。そうあらないと、相手の心身を内観出来ないし、いのちの声は聴けないからです


 ところが、整体のセッションにおいてはそうなることがあっても、なぜかそういう雰囲気を好まない人が多い。それはなぜなんだろうと疑問に思います。そのような、悟りを開いたような感じの人になってしまうと、世間的人間関係がかえってつりあわなくなると思っているからでしょうか?悟りでは飯が食えないと思っているからでしょうか?恋人同士の愛のささやきが、何か無味乾燥となってしらけてしまうと感じているからでしょうか?
 

 理由が何なのかわからないのですが、何か、この「悟ったような境地」に浸ることを望んでない方のほうが多いのは事実です。

しかし望んでないのに、冠婚葬祭や人生の岐路に立たされたときなど、あるいは年のはじめには信仰に関係なく神社や仏閣に多くの人が訪れます。それはやはり、たまには世俗を離れて静かな気分になりたいからでしようか?
 

 まぁ確かにそうですね。世間に生きる人々にとってはたまにそういう気分になるのは良いが、普段からそういう気分でいると世間とずれます。ずれるから、家族との関係も仕事の関係も恋愛もどこかずれてしまうのも事実です。
 僕は逆にお酒を飲むとき以外は、しーんと心に静寂を保っているからなのか、「多くの人がたまに訪れてくれる関係」で世間との関係を築いていますから、治療室がにぎわうことは滅多にありません。

 
 神社のような雰囲気を目指して、それに近くなったのはよかったけれど、確かに閑散とした雰囲気です。でも僕はそれでよいと思っているし、僕がそういう人間だからこそ、人を癒せるのだろうと思っています。
 
 

ところで、神社のような雰囲気というと、何か禁欲的な、神聖なふるまいを求めているように思われるかもしれませんが、それは誤解です。金を稼ぐことも、遊ぶことも、恋に落ちることも、何でもOKなのです。
 
 ただ「そうしている自分を神様の目から眺めてみる」ことを勧めているのです。