内観的整体セラピー 8  流れを観る

人が自分の心や体を観るとき、あるクセがあります。
それは、心や体の「ある状態」を見て、「こういう状態だ」と固定して決め付けてしまうのです。

例えば、腰が痛いなら「腰痛」と病名がつきますが、病名がつくと治療しなくては治らないように思ってしまうのです。
他人を見て、ある印象を抱くと「良い人」とか「悪い人」と相手をこういう人だと決め付けてしまいます。


それは心も体の変化していく。その変化に気づかないか待てないからなのです。あるいはこうありたいという気持ちが強いと体の変化の流れを受け容れられない、相手にこうあってほしいという気持ちが強いと、その願いに反した相手の心の動きが受け容れられない。



それは「観る自分」つまり私たちの意識が、社会の流れを意識してそれについてゆこうと動いているからです。その意識で思っている願いや目的、それを成就させるための計画があり、それに自分の体も相手も環境も協力してほしいと思っているからです。すると人は誰でもその願いや目的が正しいという裏づけを求め信念を固め、現実の流れを妨げるものを排除するか修正させようとします。病名をつけたり、相手を良いとか悪いと決め付けることの裡には、どちらが正しいか白黒はっきりさせようという意図が感じられます。


しかしここで敢えて、どちらが正しいという判断を急がず、心の働きを止めて、ただ体はどういう流れなのか、関係はどういう流れにあるか、事態はどういう流れにあるか、を眺めることなのです。
眺めて、雰囲気に任せる。雰囲気に反応する感覚に従う。

こうして、なるに任せるのです。


なるに任せていると、体も対人関係も、事の次第も収まるように収まるものです。

内観的整体セラピー 7 止まって観る

 以前は、内観をセラピーの技法として、身体症状を治すための技法として捉えていました。整体の基礎的考えである「病気を経過させる」ということ自体も、病気を治すためのひとつの考え方として捉えていました。
 意識では「病気を経過させる、病を受け容れる」と思っていたのにもかかわらず、相変わらず「早く痛みを取ってほしい人」が訪れることに「物分りの悪い人だ。意識が幼稚な人たちだ」とみなさんをどこか軽蔑のまなざしで見ておりました。
しかし、こうした人が訪れることには意味があると、「こうした自分と対極にある人が自分の前に訪れるということは、自分に原因があるのではないか」と自分の心を内観したとき、「自分にもいまだみんなと同じ病を早く治したい心がある」ことを自覚しました。
そこに気づいてから、彼ら彼女らを許すことが出来るようになった一方で、そこから先にある「病を経過させる」ということが、そのまま自分を見つめることとしてより深く理解出来、以前よりも人々に理解してもらえるように語ることが出来るようになりました。 


 ですから、この章でも最初はテクニックとしての内観を書こうと思っていたのにもかかわらず、手のほうは内観する上での意識のあり方、つまり心構えを書くほうになってしまったのです。

 痛みがあるときはやはり早く取り除きたい、と誰でも思います。それはやはりこのままでは不安であるのと同時に明日の生活に支障を来たすことへの不安があります。ですから、やはり痛みを静かに静観するなんて難しい。
 しかし、痛みを静観しようとしたからこそ、逆に痛みを抱えたときの心の不安や焦りが客観視できるわけで、静観しようなんて思わなければ、心の不安感に振り回され動かされるだけなのです。
 ですから、病を静観しよう、体を内観しようと決意すれば、自ずと心は現実の束縛、痛みへの不安や恐れから解放されるのです。

 


 現実に縛られているときの自分は、社会の流れに追いつけリードしようと一秒の時間も無駄に出来ないと常に動いています。その動きを病によって止められるのは不安なのです。私だってやはり、今ケガをして仕事が出来なくなることや家族が病気になって看病に時間を奪われることはいやですから、そうならないように日頃から気をつけています。
 しかし私の体は、時々だるくなったり歯が痛んだり、皮膚がかゆくなったりします。これは現実の行為への集中、取り組みを妨げます。実際、今仕事をしなくてはならないときに歯が痛ければ鎮痛剤を飲みます。
 しかし一方で、少し時間に余裕が出来、痛みも緩和されたところで体を内観し、痛いときの体の内側の動き、つまり痛みを起こして痛みが起こる必要がなくなるまでの体の働きを眺めます。
 

 呼吸を整え、背筋を伸ばし、病気についてあるいは明日の仕事についてなど心配事について考えることをやめます。呼吸が静かになると感情も静かになります。表面の心が静止するのです。整体で教える活元運動も内観への導入になります。
 そこから内観が始まります。しかし長くは続きません。数分たつとまた頭や感情が動いてきます。それでも数分でもただ眺めるようにすることを習慣づけていると、体の働きはもちろん、体に対して焦ったり抵抗したりする心の働きもまた見えてくるのです。

 
 もしどうしても不安で我慢できなければ治療を受けてもよいのです。その治療を受けるときの心の働きもまた見えてきます。
 
 

内観的整体セラピー 6 性急に癒しを求めない

ほとんどの人は、今の私の体はどうなってるの?この違和感はどうしたら解消出来るの?ということを知りたくてやってきます。僕ははっきりしているものについては、それを伝えます。そして、はっきりしているものを尋ねる方も、実はどこかで実感としてうすうす感じているから、僕の伝えることは、本人が感じていたことが正しかったかどうか「確認する」ことになります。それはそれでよいのです。

でも、原因がよくわからない、いろいろなことをしたがいまひとつすっきりしないことについては、僕もそれがわかるのに時間が掛かる。何回かセッションを重ねないと見えてこないものがあります。

見えてこないというのは、ひとつには僕とあなたが内面を感知できるほどに同調していない場合、またあなた自身が内面と同調していない、つまり「受け入れよう」という姿勢がない場合、そこを見るというのは難しい。
そしてこのようなはっきりしないものに対して、性急に答えを求める、つまり解決法や解決に至る方法を求めるということ自体が、「受け入れようとしているのではなく変えようとしている」のであり、その心の姿勢では内面は見えてこないのです。これは僕のセラピーの方針ではなく、自然の理としてそういうものなのです。


だから、わからないものほど性急な解決を求めず、それとじっくりと向き合う姿勢が必要となります。
わからないものをそのまま受け容れるとは、「はっきりしない態度、決断に迷う揺れ動く心、二者択一で葛藤する心を許すという寛容さ」と通じてきます。子供が成長するのを時間の経過とともにじっと見守る、子が親に背いてもそれをじっと我慢し許す親の心と通じてきます。


そこには、治すというより自己成長のプロセスとして捉える姿勢があります。

内観的整体セラピー 5 自然って何だろう?

考えや行いに無理や不自然があるから病気になると述べましたが、不自然って何なんでしょう。
例えば、私たちがあたりまえにしている行為には不自然や無理を感じません。タバコを吸うにしても、タバコが嫌いな人が無理に付き合いで吸うならともかく、自分の嗜好で吸っているのならそこには不自然も無理もありませんね。
お菓子や果物なども、好きで食べている行為に不自然は考えられません。
以前僕が食養をしていたときは、むしろ玄米菜食を続けることにかなり「するんだ」と意識的にならないと続けられませんでした。食べるものを気にかけず食べたいものを食べたいだけ食べるほうが僕にとっては自然でした。



すると、タバコや甘いもの、食べるものを健康上言われるのは、それ自体が体に毒なのではなく、吸いすぎ、食べすぎが体に毒なのです。吸いすぎたか、食べ過ぎたかは味覚の変化、つまりおいしく感じられたものがおいしくなくなる瞬間でわかります。僕はビールを飲みますが、おなじビールでも日により味が微妙に異なり、一杯くらいでいらなくなるときもあればおいしくて何杯でも勢いよく飲めることがあります。そのようなときでも、途中からおいしくなくなる瞬間があり、それを過ぎると酔ってきます。それを過ぎても飲みたいときもあり、そんなときは自分の心が飲みたがっていることがわかり、その心を見つめながら飲んでます。



仕事でも対人関係でも、好きなこと、好きな人には自分からしたくなる、会いたくなるけれど、嫌いなことを頼まれたときは腰が重たく、高い報酬がなければその気にならないものです。
しかし好きな仕事、好きな人でも長く続くと、そのときの気分でやる気がなくなったり会いたくなくなったりすることもあります。好きな仕事でも気が乗らないときにすることは、無理になり不自然になります。
反対に嫌いなことでも、嫌いな人でも、その日の気分で「やってみよう、会って見よう」という前向きな気分のときもありますね。



いのちの働きというのは、曲線的であり、いろいろ変化します。変化することで調和、バランスを保っています。
だから、好きな食べ物、好きな仕事、好きな人でもその日そのときによっては嫌いなときもあり、好きでないことが好きになるときもありますね。太っている体も、いのちの働きに沿った曲線的思考で行動すればいつかやせるときが訪れます。しかしそれがいつの日かはわかりません。しかし太っていても体が軽く感じられるときは、太っていて自然です。やせていても体が重たく感じられるなら不自然です。


すると、自然というのは心と体が快く感じるとき、楽しく感じるときであり、それは決して同じ状態が一定して続くのではなく常に変化しているということがなんとなくおわかりでしょう。仕事でも、物事がうまく運び楽しいときというのは長くは続きません。うまくゆかないときが訪れ、またしばらくするとうまくゆくようになる、の繰り返しです。


すると不自然というのは、一定した状態、安定した状態を望むことにあり、その願いにとらわれすぎて感覚を鈍らすことにあるのですね。

内観的整体セラピー 4 闘病は絶対にいけません!

体を内観する、病を内観するということは、病と親しくなろうと歩み寄って、病の声を聴く、ということです。親しくなろうと歩み寄るわけですから、病を敵視する心があっては内観できないわけです。ですから、世間でよく話題となる「ガンと戦う」というような姿勢は私の語ろうとすることとスタンスが異なるのです。

ガンとまではゆかなくても、世間の骨盤ブームも、「こちらのやせたいという願い通りに骨盤を矯正する」わけですから、やはり私の語ることとはスタンスが異なります。

太ることもガンになることも、私の日頃の考えと行いにどこか無理がある、不自然なものがあって、そのことを体は太ることやガンになることで教えてくれようとしているわけです。
ですから、体は肥満やガンを通じて何を教えようとしているのか、耳を傾けるのが「体の内観」です。


耳を傾けるのですから、内観というより「内聞」という表現のほうが適切かもしれませんが、目に見えず言語を語らない内なる存在と対話するのですから、まず目に見えない体の内側を見ること、それはだるいとか重いとか痛いという感覚で捉えたものをイメージ化、擬人化することでイメージの世界での対話が行えるようにするわけです。


こうしたことを観念的、抽象的なものであるであるとして、実際に体を変えることには役に立たないと考える人もおります。主に論理的、科学的思考を好む男性やそのような男性に惚れる女性に多く見られます。
しかし論理的な人というのは、自分のわかりやすいコトバの連なりから何かを連想する、つまりイメージするわけですから、最終的にはイメージに置き換えられて体を変化させる思考と行動が具体的になり、体が変わる、という点については同じなのです。

ですから、イメージ化するための入り口が異なるだけで、たどり着くところは「健康的な自己像、健康的なライフスタイル像」なのです。
 

内観的整体セラピー 3 体を内観するということ

 内観というと、内観道場における内観療法が良く知られています。
僕は体験したことがないのですが、周囲の友人たちが何人か体験しているようです。
自己を省みる上において、その価値は良く知られているところです。

僕はそれを否定するつもりもないし機会があれば体験してみたいと思っていますが、瞑想をしているのであまり必要を感じないこともあります。僕は小さいころからアトピーを患い、その治療として断食を行いその後食養を実践したことの失敗から瞑想を始めたのです。

それは、食養つまり最近でこそ文化として定着しつつあるマクロビオティックなのですが、僕はそれを実践している間常にイライラしていました食べ物に気をつけるとか注意を払うこと自体面白くなかったし、それをまじめに実践している人をどうも好きになれなかった。
しかしそれでも6ヶ月は実践したのですが、何の効果もなかったのでやめてしまいました。
ところがやめたことを、まじめに食養を実践している針の先生から「意志が弱い」と否定されてしまいました。



その頃の僕は20歳そこそこで、体に良いことが実践出来ないことをとても罪深く思ってしまい自分を責めていました。まじめだったんです。そしてなぜ自分は意志が弱いのか、つきつめようと心理学を学び瞑想を始めたのです。
瞑想を始めると、瞑想中はともかく気持ちが良い。体が宙に浮いた感じもよくあったしすごいパワーの光のシャワーを浴びる体験もしたし、やがて手から気が出るようになりヒーリングも出来るようになったのです。

精神的に良い気分になれば確かにアトピーは軽くなりますが完全に消えるわけではありません。ではアトピーの原因は何なのか、いろいろ心の姿が見えてきても、これだっという気づきはありません。瞑想の師は神経性のもので霊的なものではないと言います。しかしではなぜ神経性なのかわからない。

そうこうしている流れで野口整体と出会いました。そして活元運動を体験し体を内観することを体験しました。そこで病気すること事態が体のバランスを調整していることを知識と体を内観したときの実感から理解され、すぐにではありませんが段々と治すという意識を捨てることが出来ました。そうしたら、症状はあってもそれに悩むことがなくなり、悩まないことが症状をさらに軽くしてゆきました。


しかし、それではこの症状には何の意味があるのか、体を内観するだけではいまひとつわからず納得を求めていたところにプロセスワークと出会ったのです。
プロセスワークは、夢と身体症状の関連性から「病気は身体の見る夢」という解釈をし、無意識の表現であることを語ります。そのことに気づくには、症状と向き合い、意識的に、積極的に症状を体験してゆきます。そしてその症状の特徴、様相、雰囲気から「病気の作り手」というキャラクターを想像します。
そのキャラクターは、症状を作り出した無意識の心、要求を自分の意識で象徴的に捉えたものです。
それを体験して、僕はやっと症状の背後にある要求に気づいたのです。

それは「闘争的に生きる」ことであり、それは僕の体癖にも現れているものでした。確かに、僕は正義感が強く理不尽に感じたことは容認しないところがあります。たとえ上司の命令でもそう感じたら絶対言うことを聞かない頑固さがありました。でも表面のキャラクターは内向的で争いが嫌いだったのです。

内観的整体セラピー 2 中立的視点

 
 観察する側とされる側の互いの要求を知り両者の関係の様相を理解するとは、つまりは中立的視点に立つということです。これが自分の身体の健康や治療となると、どのような視点なのでしょう。
 それは医者やセラピストの視点に立つということです。

 

 医者は患者の「早く治したい」というニーズに応えようとする一方で、患者の身体の状態を診察しどういう治療でどれくらいで治るかという診たてを立てます。患者はこの診たてと身体の状態を受け容れるかどうかが治癒へのプロセスを左右します。受け容れるとは、医者から言われたことに悲しんで絶望したりほっとして喜んだりすることではなく、身体のありのままの状態を冷静に受け止めることです。もちろん、名医とヤプ医者など医者の診たてによっても左右されますが、ここではそのことは別問題となるので触れません。

 

 しかし他人が他人の身体を診るならともかく、痛みや熱に悩まされている当人がそれを冷静に受け止めるなんて無理ですね。だから痛みや熱の症状が強いときはそれを緩和するために薬を飲んでも良いのです。西洋医学を嫌う人は薬を飲むことを拒絶し、整体や他の自然療法に頼ろうとしますが、痛みを受け容れることが出来ないことについては同じなのですから、応急処置についてはどちらでも良いのです。症状が緩和されればいくらか心は落ち着いてきます。落ち着いてきたところでさらに「これから先どうなるんだろう」という不安を取り除いてゆきます。そのためには深く長い呼吸を行い、わからないことについては考えないようにすることです。ですから呼吸法を身に着けておくことは内観にとても役立ちます。