内観的整体セラピー 9 無心に生きる

 病んだとき、あるいは何か想定外の出来事が起きたとき、心を騒がせることなく、「この事態は何を意味してるんだろう」「私をどこへ連れてこうとしてるんだろう」と静観、内観するということは、つまりは「無心に生きる」ということですね。

 
 整体では相手に愉気するとき、無心であること、天心であることを求められます。それは、心に波風がたたないような「しーんとした感覚、雰囲気」です。その感覚、雰囲気になっている時間を出来るだけ長くする、あるいは一日の中で何度かそういう状態になることを求められます。そうあらないと、相手の心身を内観出来ないし、いのちの声は聴けないからです


 ところが、整体のセッションにおいてはそうなることがあっても、なぜかそういう雰囲気を好まない人が多い。それはなぜなんだろうと疑問に思います。そのような、悟りを開いたような感じの人になってしまうと、世間的人間関係がかえってつりあわなくなると思っているからでしょうか?悟りでは飯が食えないと思っているからでしょうか?恋人同士の愛のささやきが、何か無味乾燥となってしらけてしまうと感じているからでしょうか?
 

 理由が何なのかわからないのですが、何か、この「悟ったような境地」に浸ることを望んでない方のほうが多いのは事実です。

しかし望んでないのに、冠婚葬祭や人生の岐路に立たされたときなど、あるいは年のはじめには信仰に関係なく神社や仏閣に多くの人が訪れます。それはやはり、たまには世俗を離れて静かな気分になりたいからでしようか?
 

 まぁ確かにそうですね。世間に生きる人々にとってはたまにそういう気分になるのは良いが、普段からそういう気分でいると世間とずれます。ずれるから、家族との関係も仕事の関係も恋愛もどこかずれてしまうのも事実です。
 僕は逆にお酒を飲むとき以外は、しーんと心に静寂を保っているからなのか、「多くの人がたまに訪れてくれる関係」で世間との関係を築いていますから、治療室がにぎわうことは滅多にありません。

 
 神社のような雰囲気を目指して、それに近くなったのはよかったけれど、確かに閑散とした雰囲気です。でも僕はそれでよいと思っているし、僕がそういう人間だからこそ、人を癒せるのだろうと思っています。
 
 

ところで、神社のような雰囲気というと、何か禁欲的な、神聖なふるまいを求めているように思われるかもしれませんが、それは誤解です。金を稼ぐことも、遊ぶことも、恋に落ちることも、何でもOKなのです。
 
 ただ「そうしている自分を神様の目から眺めてみる」ことを勧めているのです。