内観的整体セラピー 7 止まって観る

 以前は、内観をセラピーの技法として、身体症状を治すための技法として捉えていました。整体の基礎的考えである「病気を経過させる」ということ自体も、病気を治すためのひとつの考え方として捉えていました。
 意識では「病気を経過させる、病を受け容れる」と思っていたのにもかかわらず、相変わらず「早く痛みを取ってほしい人」が訪れることに「物分りの悪い人だ。意識が幼稚な人たちだ」とみなさんをどこか軽蔑のまなざしで見ておりました。
しかし、こうした人が訪れることには意味があると、「こうした自分と対極にある人が自分の前に訪れるということは、自分に原因があるのではないか」と自分の心を内観したとき、「自分にもいまだみんなと同じ病を早く治したい心がある」ことを自覚しました。
そこに気づいてから、彼ら彼女らを許すことが出来るようになった一方で、そこから先にある「病を経過させる」ということが、そのまま自分を見つめることとしてより深く理解出来、以前よりも人々に理解してもらえるように語ることが出来るようになりました。 


 ですから、この章でも最初はテクニックとしての内観を書こうと思っていたのにもかかわらず、手のほうは内観する上での意識のあり方、つまり心構えを書くほうになってしまったのです。

 痛みがあるときはやはり早く取り除きたい、と誰でも思います。それはやはりこのままでは不安であるのと同時に明日の生活に支障を来たすことへの不安があります。ですから、やはり痛みを静かに静観するなんて難しい。
 しかし、痛みを静観しようとしたからこそ、逆に痛みを抱えたときの心の不安や焦りが客観視できるわけで、静観しようなんて思わなければ、心の不安感に振り回され動かされるだけなのです。
 ですから、病を静観しよう、体を内観しようと決意すれば、自ずと心は現実の束縛、痛みへの不安や恐れから解放されるのです。

 


 現実に縛られているときの自分は、社会の流れに追いつけリードしようと一秒の時間も無駄に出来ないと常に動いています。その動きを病によって止められるのは不安なのです。私だってやはり、今ケガをして仕事が出来なくなることや家族が病気になって看病に時間を奪われることはいやですから、そうならないように日頃から気をつけています。
 しかし私の体は、時々だるくなったり歯が痛んだり、皮膚がかゆくなったりします。これは現実の行為への集中、取り組みを妨げます。実際、今仕事をしなくてはならないときに歯が痛ければ鎮痛剤を飲みます。
 しかし一方で、少し時間に余裕が出来、痛みも緩和されたところで体を内観し、痛いときの体の内側の動き、つまり痛みを起こして痛みが起こる必要がなくなるまでの体の働きを眺めます。
 

 呼吸を整え、背筋を伸ばし、病気についてあるいは明日の仕事についてなど心配事について考えることをやめます。呼吸が静かになると感情も静かになります。表面の心が静止するのです。整体で教える活元運動も内観への導入になります。
 そこから内観が始まります。しかし長くは続きません。数分たつとまた頭や感情が動いてきます。それでも数分でもただ眺めるようにすることを習慣づけていると、体の働きはもちろん、体に対して焦ったり抵抗したりする心の働きもまた見えてくるのです。

 
 もしどうしても不安で我慢できなければ治療を受けてもよいのです。その治療を受けるときの心の働きもまた見えてきます。