関係性の中心

体と心の中心が定まっていると、相手を受け容れることが出来ます。
あるいは中心のある人と出会うと、「受け容れられた」という感覚があります。


ても「受け容れる」ということと「関係を持つ」ことは次元の違う話です。

関係を持つということは、当然関わる両者が共有できる何かがないと関係は生まれない。
受け容れるというのは、相手と共有できるものがあろうとなかろうと、その人をその人として、その人のありのままを認め許しているわけです。

だから、「受け容れるという心」には相手に対する要求、要望はないのです。


でも、関係を持つなら、現実レベルでは要求が生ずる。
「仕事の話がしたいので明日会えないかな?」というように。


ところで、相手を受け容れるなんて理想です。
実際には、「相手にこうあってほしい」という、現実レベルではなく精神レベルでも相手に何かを求めてしまう。
こうした関係を「依存」といいます。


そしてお互いが依存している場合を「共依存」といいます。
実際には「共依存」の関係がほとんどではないかと思います。


でも、僕はそれで良いと思う。
依存しあう関係というのは、実をいうと、その関係から自分の中心を見つけようとしているのだと思う。
「自分がわからない、わからないから自分を愛せない」だから自分を大切に思ってくれる人と関係を持ちたくなる。
でも自分は自分のことを、その相手以上に大切にしていない。

だから、その人に依存してしまうのだろうと思うのです。


でも、関係から自分の中心を見つけようとするなら、意識の中心1で書いたように、相手の人柄や考えに共感したり、そこに救いや癒しを求めるだけではなく、それよりも大事なのはその相手のエネルギーを自分のものにする。あるいは自分と相手を結びつけた「出会いのエネルギー」を自分のものにするのです。
これを僕は「関係のエッセンス」と呼んでます。


「そのエッセンスのエネルギーの質は何だろう?」と深く感じ、観じてみる。
そして、それが例えば「希望」とか「やさしさ」とか「勇気」だと気づいたら、気づいた瞬間にあなたにはその「希望、やさしさ、勇気」が備わっています。
そしてそれが、あなたの中心を育ててくれます。


ところで、整体のベースとなっている「愉気」というのは気で相手の病気を治すことではないのです。
相手と気が同調したときに、お互いの心と体に起こることを期待しているのです。


だから、愉気をする側は「相手を変えよう」とか「良くしよう」とか「治そう」と思わず、ただ無心で相手に接するのです。
すると、自分のエネルギーと相手のエネルギーが共鳴し、共振が起こる。

これを僕は「同調」と呼んでいますが、それが起こると自分の中にある「何か」と相手の中にある「何か」が無意識のレベルで触れ合うのです。
その、ふたつのエネルギーが溶け合って同化したとき、お互いの体と心は「中心」に向かって動き出すのです。

そして、中心が定まると、自然と相手を「受け容れる」ことが出来るのです。